どうして人は「生活」を美しく切り取って芸術にしてしまうのか
その白い肌に月が映り込んで
化粧をする君に並んだ
生活 / odol
生活。特別な日を歌っているわけじゃないこの曲は、美しくてどこか儚い。
曲になれば、絵になれば、小説になれば、生活というものは美しくてエモい。
フェルメールの、日常を切り取って描く絵はとても美しい。外から見ると、そうやって絵画にできるような、とても美しい景色もあるんだろうけど、生きている当の本人からすると、生活なんてそんな当たり障りのないものじゃない。
お金もなければ時間もなくて本当に欲しいものは手に入らなくて、同じ日々の繰り返し。そんなのばっかりだ。
どうして、芸術作品に落とし込まれると、なんでもない生活がエモく感じられるのだろうか。
実際はこんなにも飽き飽きしてしまうものなのに。
『ミキサーが欲しいな。スキレットも欲しいかも。』
退屈に繰り返す日々の中で唐突に浮かんだこんなひらめきは、日常に変化をくれるような気になる。
買ったところで劇的に生活が変わるわけでもないのに、それでも何かしらに縋りたくなってしまう。
ミキサーで美味しいバナナジュースを作れば。
スキレットで大好きなアヒージョを作れば。
何かが変わる気がして、Amazonで「スワイプして注文」のスライドバーをスライドさせる。
変化のない日常を愛せないのは、雑に生きてるからかもしれないし、まだ心が思春期だからかもしれないし、両方かもしれない。