風に溶けて消える

そんな穏やかな気持ちで生きたいほんとは。限界OLバンドマン

不安の形と記憶の繊細さ

 

溢れても溢れても足りなくて、私に故意に堰き止められた不安は、消えるどころか頭の中で塊になり強固になって、眠ろうとする私を邪魔した。

昨日一昨日と起こった地面の揺れの感覚も体に染み付いていて、時折揺れている錯覚に陥る。それがさらに眠れなさを加速させる。

 

明日の朝はどんな朝だろう。どんな未来が今という形になってやってくるのだろう。あと何度怖い夜を越えれば、穏やかに眠れるんだろう。

 

そんな漠然としたどうしようもない不安に目隠しをし眠ろうとするも、目が冴えて眠れない。

楽しいことを考えてみても、今の期間にできることを考えてワクワクしてみても、それでもまだ眠れない。

仕方ないから文章を綴ってみる。

 

記憶というのは本当に繊細だ。こうやって、その時々の感情に耳を傾けて文字に起こしておいても、後から見返す頃にはもう、完全に同じ気持ちを思い出すことはできなくなっている。

これは、この場所で100記事書いてきて知ったことだ。今、過去のブログを読んでみても、ほぼ字面を追ってそのまま受け取ることしかできない。なんかそんな類の辛さあったな、くらい。

視力2.0で見ていた苦痛はもう、0.3くらいでしか見えなくなった。

 

今ここで抱えている大きな不安も、何年後かに見返す時にはそんな頃もあったな、とか、どんな感じで不安だったっけな、とか、未来の私はきっと言うんだろう。

 

文字に起こすのはただの気休めだ。今、思考が渦巻く頭を楽にしてあげるため。それ以上の意味はないし、いらないのかもしれない。

 

不安から少し目隠しを外して向き合ってみると、堰き止めた思考による脳の緊張が解けるのか少し落ち着く。眠れるといいけれど。

自宅、3週間

 

たくさん曲を作りたい。

ライブができない分たくさんライブ配信したい。

歴史的名著も読みたい。

この機会に鍛えたい。痩せたら少しは外見もよくなるかな。

 

したいことはわりとある。考えるとワクワクもできる。

 

でも、心はそんな単純じゃない。浮いて沈んで、浮かずに眠って起きて、かと思えばまた浮いてきて。

もともと過度な心配性だから、家で画面越しの情報に触れるだけでいろいろ想像して疲弊する。

 

今、したいことしていないと、後悔するんだろうなというのもわかるのに。こころのせいで何もできない。

 

なぜこんなに浮き沈みが激しいのか。ひたすらに自分に振り回される。次第に、自分を責める言葉しか見つからなくなる。

勝手に自己肯定感が下がる。客観的に見ると実に滑稽だ。

 

生きてるだけでいいんだよ今は、こんなストレスフルな状況で、毎日家にいて息をしているだけで十分偉いじゃないか。

そうなんだけど焦って忘れてしまう。ね。

 

精神疲労に平日夜カフェのすすめ

f:id:x5296x0715:20200323225302j:image

以前、ライフハック記事にもチラッと書いたけれど、精神疲労を溶かすのに私は夜カフェを猛プッシュしたい。

 

カフェに行こう、と昼間に思い立ったのが今日。ここ2週間ほど、私の精神は地を這っていたため、仕事帰りにカフェに立ち寄るのさえ少し億劫だった。しかし、このまま帰ってもこの精神状態は何も変わらないだろうなと思い、電車のシートから腰を浮かせた。

 

平日夜のカフェはとてもいい。できれば、チェーンでもなんでも、小綺麗なカフェがいい。最近作られた店舗のような、内装が少し洒落てて、勉強していい雰囲気の出ているカフェ。

 

席へ座り、アイスカフェラテを飲みながらぐるっと店内を見渡す。

本を開いて勉強している学生、見るからに社会人なんだけれど、何か目的を持って勉強していそうな人。

はたまた、パソコンを開いて作業をしている大人。

 

降りる駅にもよるのだろうが、夜のカフェは、ひとりの時間と向き合っている人が多いように思う。おすすめはあまり栄え過ぎていない駅。

 

それぞれに、それぞれの生活とか目指しているものがあって、平日の夜にこのカフェで時を過ごしているんだなと思うと、なんだか、少し心が穏やかになる。

ひとりの時間と向き合うという孤独な作業をしている人たちがいる空間で、自分もまたひとりの時間を楽しむのは、なんかすごく豊かな気持ちになれるのだ。

 

カフェへ入る前、降り立った駅のコンビニで購入したキャンパスノートに、今の思考を書き綴る。体裁を気にせず、思ったこと、全部。

スマホでなんでも済ませられる時代だが、やはり手でペンを持って、自分の文字で言葉に起こすのはいい。頭でぐるぐる考えているだけでは見つからない答えが見えてくる。

特に、悩みや不安などの精神疲労が、酒に飲まれても人に話しても拭えない人にはすごくいい気がする。

そういう、ぐるぐる考えるタイプの人は、まわりに「考えすぎ」なんて簡単に言われるだろう。私もこれまで何回言われてきたか数えておけばよかったくらい言われてきたし、これからもそうだろうと思う。

でもそんなセリフは一旦横に置いておいて、とことん考え尽くして、言語化してみる。そうすることで、自分で自分を救えることがある。

そうやって、自分自身を救えたという経験が自己肯定感にもつながって、相乗効果で心が楽になる、気がする。

 

見つけた答えにすっきりして顔をあげると、やはり目の前の光景はさっきと同じ。黙々と、だれもが、ひとりの時間を嗜んでいる。

それを見てまたふっと心が柔らかくなって、さっき吐き出した数ページにわたる心の声に目を落とす。

 

本を読んだり、ノートに綴ったりしていれば、気づけば2時間ほど経過していた。居心地がいい。明日はまた平日だ。人もまばらになってきた店内を出て、帰路に着く。

 

夜のカフェ特有の落ち着いた空間では、なんとなく、都会の喧騒も忘れられる。

 

人生に疲れた時、頭の中で思考が飛び交ってうるさい時。仕事帰りにでも、本とノート、ペンを持って、比較的落ち着いている街の小綺麗なカフェに行ってみてください。

 

私はいつも、心が少し楽になったり、救われたりしています。

 

今日読んだ本はこちらなんですが、とても良本だったので貼っておきます。では。

しんどい心にさようなら 生きやすくなる55の考え方

しんどい心にさようなら 生きやすくなる55の考え方

  • 作者:きい
  • 発売日: 2020/03/14
  • メディア: 単行本
 



24歳11ヶ月

 

漠然とした何かから救い上げて欲しい私の、声にならない声が頭の中で叫ぶ。

カタカナで、タスケテ、と。

空気は震わせない。なんの意味もない感情。

せいぜい、誰も見ない裏アカに文字となって落とされるだけだ。

 

断片的な行動と感情が、後ろから俯瞰する私自身に切り取られて、歌詞メモにストックされる。いつか、なにかの曲に使えるかな、と一瞬口角を微かに上げる。

 

こんな風に精神が落ち込むの、いつまで続くのかな、とぼんやり思いながら、どうにもこうにも持ち上がらないので、自分で自分を救い上げる方法を考える。

 

自然の豊かな温泉地に行こうか、毎晩お酒で無理やり思考回路を止めようか、文章に綴ろうか、曲にして昇華しようか。

 

結局なんの気力もなく吐き出すようにこんなブログにつらつら綴るだけだ。一円の価値もない。

 

ありとあらゆる幸せの効力がなくなってしまうほどのやるせなさの正体はなんなんだろうか。

 

わかるようでわからない。抜け出せるようで抜け出せない。

 

生き方がわからない。

 

どうすれば自分を快適にさせてあげられるのか、どうなればもっと自然に生きられるのかもわからない。

そんな世界があるのかさえもわからない。

 

わからないのにそんな世界線を期待してしまっているから非常に疲れてしまう。

希望より絶望の方がいくらかマシだなと、思わないでもない。絶望に陥れば絶対そんなことは言えないくせに。結局は逃れたいだけだ。

 

逃れたら逃れたで、またそこからも逃れたくなるんだろうなって、そう思うと怖くてどこにも逃げられない。

 

音楽や、本、文字などの、こころの一瞬の逃避場所になってくれるものを抱きしめて生きている私は、誰かのそんな場所になりたくて明後日もライブをします。24歳11ヶ月。

twopack milkでの初ライブ、でした。

 

14歳の時にギターを手にし、21歳の時に歌と作曲を手にした。

そして今年の2/1。4度目の初ライブだった。

 

高校生のときは、愛媛でほぼコピバンだったけどずっとやっていたバンドがある。

そして神戸へ移住した私はメタルに手を出し、その後ギターボーカルを務めるバンドで活動をしたりもした。

 

それまでのバンドの初ライブを、私はあまり覚えていない。だから今回は、文字にして残しておきたいと思い、綴っている。

f:id:x5296x0715:20200205211123j:image

今回ほど、ライブをしながら様々な感情が渦巻いてきて泣きそうになったライブは、これまでにきっとなかったと思う。

 

東京へ来て、もうすぐ2年。今回やった5曲はどの曲も、文字通り、心身を削り作ったものだ。どの曲も、ひとりで抱えきれなくなって吐き出すように綴った言葉をメロディーに乗せて、形になったもの。

 

前回のバンド解散から、バンドでライブをするまでに、3年かかった。振り返ると公私ともにうまくいかなくて、しんどい3年間だった。人間不信に陥ったり、夢の挫折を経験したり、自尊心を底まで突き落とされたり。もう経験したくないことばかりだけれど間違いなく、その3年間が産んだ5曲だった。

 

そんな密度の濃い曲たち。そして、様々な思いをしてきた3年間。ライブで弾けるように放たれるものを感じて、これまでの人生が、走馬灯のように駆け抜けた。

 

" 変わらないで 変わらないで 変わらないでよ "

 

「ある朝」を演奏する前のMCでも言ったけれど、私は変化が怖い。大切なものが増えれば増えるほど、怖くなる。作った曲、バンドメンバー、そして、twopack milkの音楽を好きと言ってくれる人たち。

 

twopack milkを結成してから、そんな大切な人が、大切なものが一気に増えた気がする。もちろん幸せだ。幸せだけど、以前より涙脆くなった。だからこそこんな曲ができたのだけれど。

 

変わらないでとは言えないから、私とともに居てくれる、在ってくれる今は、しっかり抱きしめていたい。MCで自分の口から言葉を紡ぎながら、改めて思いました。

初音源、まだ聴いてない方ぜひ聴いてみてください。

 

次回は3/19、下北沢近松。初ライブの感覚をこれから研いでもっと光るものにします。絶対いいライブにするのでぜひ遊びにきてね。

twopack milkのツイッターはこちら 。IDは @289milk なのでぜひフォローを。

 

24年間片付けができなかった私がハマれた掃除方法

 

掃除・片付けにハマり約3週間が経過しました。つまり3週間も部屋が散らかっていない。これはすごい。快挙である。

 

前回は、ズボラの私が掃除にハマったきっかけをつらつら綴りました。

ズボラで面倒くさがりな私「片付いてピカピカになった空間はすごい 」 - 風に溶けて消える

今回は前回の続き。

 

24年間、綺麗な部屋で生活できたことのないズボラがいかに掃除ができるようになったのか、綴ります。

 

年始に掃除を始めた

これがなかなかデカかったように思う。

年始に目標を立てる人って多いと思うんです。私も完全に形から入る派なので、「よし、今年は音楽も生活も充実させるぞ!!!」なんて意気込んで年を越えたわけですが、そんな新年というタイミングがよかった。

「じゃあ掃除もしゃんしゃんやるか!!」

と、脳筋みたいになってました。

 

いざ掃除を進めていくと、掃除だけでなくその他の新年に対するモチベーションの維持にもなり相乗効果。1/24現在、まだ新年マインドを保てている。強い。

 

大掃除というのは年末にするからしんどいんですよ。きっと。

「年末に綺麗にして気持ちよく年迎えよう」じゃなく今年は、「さて年も明けたし、このモチベーションのまま綺麗にしてやろう」です。今からでも間に合うと思いませんか。

 

5〜15分の「ながら掃除」を徹底した

掃除をするぞ、と意気込んだはいいが、私は掃除が嫌いだ。さらにいうと、わりと効率至上主義である。

そのためあまり掃除に時間を割きたくなかったので、自炊の合間に掃除をすることから始めた。

 

私は前述したように効率至上主義であり、かつ健康オタクなので、この冬はほぼ毎日鍋を食べている。鍋はすごい。野菜もたくさん取れるし、汁物で温かいから冷えた体も温めてくれる。さらにはヘルシーで、多目に作れば3〜4食分ほど作れる。あとベースの味のレパートリーも数多。

夜食べた残りを翌日のお昼のお弁当として持っていってもなお、翌日の晩ごはん分が余る。最高。金銭的・時間的コスパが良すぎる。鍋はすごい。

 

鍋に熱くなりすぎたけど、食材を切って鍋に放り込んだら手が開きますよね?

その空いた手を利用してベッドへダイブするのではなく、まずスポンジを持って調理に使った食器を洗う。それでも鍋が完成するにはまだ時間が余る。鍋の中身は3〜4食分だからだ。まあまあな煮込み時間が必要なのである。

 

そこで、キッチンのクレンザーなどを利用してシンクを磨いてみる。それでも時間が余れば、洗面所の水垢をゲキ落ちくんで落としてみる。

f:id:x5296x0715:20200124215414j:image

その間約10分。丁寧にしても15分。

 

そしてシンクと洗面台はピカピカになり、お鍋も完成。いい気分で夕飯を食べられる。これはハマるとやみつきになりますよ。

次、2.3日後に鍋がなくなる頃にまた鍋を作るなら、もっと細かいところを掃除できる。キッチンの壁の油汚れとか、洗面台に取り付いている棚の汚れを落とすとか。私はもう鍋がないと生きていけない体。

 

こうして料理の合間、なんなら歯磨きの合間でもいい、片手は空くので、片手にゲキ落ちくんを持つのである。

 

もう少し掃除したいな、の段階で止める

これはとても大事。特に完璧主義指向のある人で部屋の片付かない人は特に当てはまると思う。

掃除は、嫌いな人にとってもやはり綺麗になっていくと気持ちよく、楽しくなってくるものだ。と、思う。

そんな掃除を、もう少ししたいなで止めることで、「掃除して疲れた」という嫌な記憶が残らない。

少しだけして、後は翌日、翌々日に回す。

そうすることで、疲れず楽しい間にやめることができるし、少しずつ綺麗になっていく様子もまた楽しい。

 

ハマりやすい掃除の順番を見つけた

これは完全に、

キッチンのシンク・洗面台→玄関→通路→リビング

だ。1Kの場合であるが、まずは部屋までの空間を綺麗にしてしまう。これが効果的。ひとつずついきます。

 

片付きやすいキッチンのシンク、洗面台から拭き始めた

シンクの銀色や、洗面台の白は、ピカピカになるのが見えやすい。モチベーションにつながる。料理の合間、歯磨きの合間、テレビCMの合間、なにかの合間にできるのもいい。

 

玄関

玄関は風水的には「運気の入り口」ともいわれる。ここを綺麗にするとやっぱり気持ちいい。段ボールが積み重なっていたのをすべて処分し綺麗にしました。玄関も物が少なめな場所で、わりとすぐ掃除できる場所ではないかと思う。大量に靴を持っているとかでない限り。。

1ヶ月綺麗が保てたら植物を招こうかと調子に乗ったことも考えているところである。

 

リビング

リビングは強敵だ。そもそも、いちばん散らかるのはここである。気づけば服や本がそこらじゅうに溢れている。

だいたい汚部屋の方々はそうなってますよね。

 

部屋が散らかるのは、収納スペースに反して物が多いから、というのが片づけ界では鉄則らしい。

しまうところがないから、居場所のない物たちが溢れる。

 

そうらしいので、私は部屋のもう着ない服、もう読まない本、休日2時間半を使って処分しました。さすがに疲れて嫌気さしたので、最初にリビングから手付けてたら挫折してた気がする。

 

掃除にハマって10日くらい経っており、かつリビングまでの部屋のパートは綺麗になった後だったのでなんとか片付けられました。

実はまだ引き出しの不要物は精査していない。来週くらいにする予定。

 

一番楽しかったのは、本の処分。「また読むかな……」と捨てられず今まで生きていたのだが、処分する基準を決めると捨てられた。

 

基準と言ってもシンプルで、"もう、今の自分に必要ない本" というものだ。

 

たとえば、自分の生き方が定まったことにより要らなくなったり、もう自分の思考・行動に染み付いた、つまり自分のものになったことにより要らなくなった本、その2つに該当する本を私は処分した。

 

"自分の生き方が定まったことにより要らなくなった本"の処分は、すごくいい気分になります。

要らないもの、捨ててシンプルに生きようとするのってこんなにも気持ちいいんやな、となって、少し自信にもつながりました。

 

掃除の習慣化、3週間を経て

今のところ、よかったなと思うことが、何もかも一気にしなくなったことがある。

たとえばこのブログ。まあまあ文字数あるんですけど、今までなら止めてしまうのが嫌で一気にその日に書き上げることが多かった。結構時間使ってしんどい……となった時期も。

しかし掃除みたいに、分けてやろうと思うことで、続けるのが楽になるとを知ったし、掃除と同じならクオリティも上がる。

あとは自己肯定感も爆上がりしてます。脳みそ単純やな。

 

では、次回は汚部屋出身者が綺麗を保てた方法を綴ります。まだ3週間弱なので、あと1週間後にもまだ綺麗なら書けます。現在進行形。。。

ズボラで面倒くさがりな私「片付いてピカピカになった空間はすごい 」

 

私はO型だ。おおざっぱでガサツ。性格を血液型で語るのはナンセンスだが、いわゆる典型的なO型だ。

 

服はまずクローゼットに収まらないし、テーブルの上も気づけば物が増えている。

部屋を綺麗だねと褒められた試しがない。人を家に呼んだときにもらう褒め言葉は「生活感があっていいね」の一種類。これはきっと絞り出された褒め言葉である。

性格上、綺麗にしたって1週間もあれば元通りになるからと、生活できるレベルの部屋を保って6年ほど一人暮らしをしていた。社会人になってからそのスタンスは加速し、毎日毎日10時19時フルで働いて家事まで回すなんて現実的に無理、と真顔で考えていた。

 

というか実際、そこまで片付いていなくても、居心地がよかったのだ。

私の部屋は、気密性が高く、冬でもわりとあたたかくて、そこそこイイ加湿器もある。あとあったかい部屋着も。不満という不満は、布団が薄くて少し寒いくらいで、それ以外は私にとってなんの不自由もなく、多少散らかってはいるけれど、自分の家はとても好きだった。

 

そんな中、年末年始に実家に帰省した私は、実家の整然とした様子に感服した。

 

ああ、なんてこの家は過ごしやすいんだ。ただここに存在しているだけでなんて気持ちが良いのだ。

 

自分の家では感じない感覚だった。

 

実家はいつも綺麗に掃除されていたし、いつもの光景ではあった。それなのに違和感を感じたのは、今まで気づかなかったことにその時初めて気づいたからだ。

『母もわりと私と同じように働いてるよな・・?なのにこの家の整い方・・・?』ということに。

 

「普通に働いてよくこんなに家事回るね……」

と、私がぽろっとこぼすと母、

「散らかっとったら落ち着かんのよ」

と一蹴。

 

ああ、DNA。仕事をしてくれ。

 

そんなことを思いながら東京の家に戻った。

 

東京の自宅で見た光景

するとどうだろうか、今まで過ごしていた家に戻ってきただけなのに、すごくイライラする。

 

綺麗で整った実家に5日間も居てしまったからだ。

 

段ボールでわりと足の踏み場がない玄関、空きボトルに占拠されるシンクのフチ………

 

私は形から入る人間なので、毎年年始の気合いと言ったらすごいのだ。年が変わり、意気揚々と、2020年はいろいろ頑張るぞ!なんてメラメラしていた志が、汚部屋によって一気に枯れていきそうな感覚に襲われて決意した。

 

よし、部屋を片付けよう。

 

新年初のハマりごとに

その決意から今日で10日。見事に掃除にハマってしまった。

 

なにがって、 片付いた空間はすごい。片付いた空間は、パワーを持っている。というか、片付いていない空間の負のパワーはあまりにも強烈と言った方がいいのかもしれない。

その負のパワーはあらゆるやる気を削いでいたし、強く生きようと思う生命力まで低下させていた。これは、綺麗に掃除してみて気づけたことだ。

 

段ボールのなくなってスムーズに外に出られるようになった玄関。ピカピカの洗面台、シンク。ひっそりと自尊心が高まるのをここ最近感じている。

 

料理なんて本当にしたくなかったのに、シンクを片付けてピカピカにしてからは以前より料理をする気がわくようになったし、ピカピカのシンクを想像すると晩ごはんが楽しみになった。

f:id:x5296x0715:20200115215211j:image

▲造花は以前からのもの。一瞬インテリアにハマった大学の頃に買ったやつ。

 

なんというか、いわゆる "丁寧な暮らし" に近づいた感じ。丁寧でもなんでもないのかもしれないけれど、以前よりは丁寧に生活ができている気がする。

 

24年間綺麗な部屋を作れたことがなかった私がどういう過程で掃除にハマり、どうやって綺麗な空間を作れたのかも書きたかったけど、長くなったので本日は一旦終わりにします。近いうちに書きます。

 

このハマりごと、速攻飽きたらわろてください。では。