風に溶けて消える

そんな穏やかな気持ちで生きたいほんとは。限界OLバンドマン

『進路』なんて、決めた時に決まるもんじゃないんだなって

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私は、選択コンプレックスかもしれない。いや、厳密にはそんな言葉はないのだけれど、自分で言葉を作ってしまうくらいには選択と決断が苦手だ。

 

思えば、それは高校生の頃から始まった。音楽の専門学校に進むか、大学に進むか。まだ18歳のか細い肩に乗せられた、人生の大きな選択。

 

人生の中で初めての大きな選択

小学生の頃、詩や日記などで文章を書くのが好きだった私は、大好きだったアイドル、嵐の曲のメロディーを借りて作詞遊びをするのが好きだった。中学生になってからはギターを手にして夢中になった。その後、市内の高校に進み、バンドを始めた。一生、音楽で生きていきたいと思った。それくらい、純粋に音楽が好きだった。

 

しかし、高校卒業後は、迷いに迷って、大学に進むという選択肢を取った。

『もしかしたら、音楽以外のビジネスに興味を持つ日が来るかもしれない。それなら大学に進んだ方が・・・』

 

私は、18歳という年齢で、自分の人生の幅を狭めるのが怖かったのだ。自分の人生の道を、可能性を、切り落としてしまうのがとても怖かった。選べたけど選ばなかったという、取り返しのつかない後悔が、とても怖かった。

 

大学へ進学し、2度目の人生の分岐点「就活」

大学で神戸に出た私は、3年間音楽活動に精を出していたが、音楽活動が実を結ぶことはなく、また、決断の時が訪れる。

 

そう、就活だ。

 

大学3年生の、冬。3/1が、刻々と近づく。就活幕開けの日。

就活をするかしないかについて、私はさまざまな方向からあらゆる可能性を考え、悩んだ。こんなことを自分で言うのは変な話だが、心の底から思っていた。なんで私は馬鹿じゃないんだろう、と。音楽しかできないような脳みそならば、こんなに迷う必要なんてない。もしくは、もっと思い切りのいい大胆な性格だったら。そうやって、自分の脳みそと性格を恨んだ。そんなところにしか八つ当たりができなかった。がむしゃらに音楽をやっている人間が、私は心底うらやましく、嫉妬をしていた。

 

そんな中、私の決断を後押ししたのは、小学6年生の頃からたまに書いていた日記だった。

日記をめくるうちに、大学進学時の『人生の幅を狭めたくないから』という理由を見つけ、当時の気持ちを思い出し、今の自分の状況と重ねてみた。

 

『大学に進んだけれど結局今でも音楽がやりたいんだ。後ろ髪を引かれっぱなしだ。ということは、それが私の価値観。もう2度目はない。きっと、音楽を気が済むまでやり切らなきゃ一生後悔する。そんな後悔、絶対に御免だ――。』

 

そうして私は、就活をしないという決断をした。

 

翌日、私は母に電話をした。大金持ちでも小金持ちでもない家庭だったので、本当は大学で神戸に出ることも反対されていたのだ。仕送りはいらない、バイトもしっかりする。そう説得を重ね、なんとか入れてもらった大学だった。母にはきちんと、話さなくてはいけない。

 

「お母さん。私、就活せずに気が済むまで音楽やりたいんやけど。」

 

そう切り出して、私の話が一通り終わるのを待ってから母は、

「私今までね、あんたの決めたことを尊重してきたけど、ごめん、でも、それだけは賛成できん。」

 

少し、声が涙ぐんでいた。私の母はいつもそうだった。一応は意見するけれども、本気で私の決断を否定することはなかった。涙声の母の声にいったんひるんだものの、私だっていろいろ考えて決断を下したのだ。軽い気持ちじゃない。ここで引き下がることはできない。

 

「大丈夫やって。別に、新卒じゃなくても働けるし。英語力でも身につけとけばそんな不利にならんって」

今思うと呆れてしまう。浅はかな考えだった。私がどんな言葉を発しても、「いや、だめだ」と母は頑なに首を振って、言った。

 

「いや、ごめん、ほんとに、無理。私、絶対後悔する。あんたを止めんかったこと、一生後悔する。それはつらいよ、お願いやけん、そんな後悔させんといて・・・」

 

涙で聞きづらい電話越し、これを聞いて私の涙腺も崩壊した。まず、こんなに頑なに母が私に反対してきたこと。そして、『後悔をさせないで』、私と同じその思いを母が持っていたこと。

 

後悔は怖い。後からどうにもできないものは、年月が経ってもいたずらに人を苦しめる。そんな思いを、子どもが巣立ったあとの愛媛の片田舎の一軒家、父とふたりで暮らす母に負わせてしまうのかと思うと、胸が苦しくて仕方なくなった。

 

結局私は、就活をすることにした。初めて私が、母に折れた日だった。

 

そして、東京で就活を

この電話が終わり、後日和解してから私はひとつだけ、母にお願いをした。『就職するから、東京に出させて。』愛媛から神戸でも結構遠いが、東京だとさらに遠い。だが母は、就職してくれるなら何でもいいよと、二つ返事で許可をしてくれた。

 

東京に出たかったのは、やはり音楽をするためだった。就職をするとは言っても、音楽はやっぱりやめたくない。働きながらでもバンドがしたい。

そう思った私は、バンドメンバーに困らなさそうだから、というだけの理由で東京の地を選んだ。

 

3/1に就活が解禁してからは、説明会・面接と、ひたすら東京に通う生活が続いた。就活費用は親に頼めないので、お金もかけられないしバイトも外せない。

就活は基本平日だったので、平日に夜行バスで東京へ行き、数日説明会や面接を何社も渡り歩く。夜は新宿のカプセルホテルやネットカフェに毎日泊まって宿代を浮かせた。そして週末にはまた夜行バスで神戸に戻り、バイトをした。

 

それを数か月繰り返していたんだから、我ながらすごい行動力だなと今では思う。しかしあの頃は必死で、そんなことに構っている余裕はなかった。どうしても、東京に出たかったのだ。

 

新社会人としてのスタートは

そして希望の企業に内定が出たおかげで怒涛の就活が終わり、昨年の春、私は晴れて東京の会社員になった。営業マンになった。

 

しかし人生そううまくはいかないものだ。

外回りの営業に配属された私は、日中ひたすら外に出て営業先を渡り歩き、夜になれば立地調査で駅周辺を歩き回った。多い日は、万歩計が1日で3万歩にまで達した。とにかく、体力がついていかなかった。音楽ばかりだった私の人生、運動なんてしてきておらず、体力なんてなかったのだ。仕事が終わって家に帰ってごはんを食べると、何もできないような日々が続いた。もちろんそんな状態では、音楽をする余裕もなかった。

 

それに加え内向的な私は、営業が苦痛で苦痛で仕方がなかった。『ああまた来た。もういいって、帰って。』相手の心の内が透けて見える。それでも営業をしなくてはならない。

 

『何をしてんだろうなあ。もうしんどいなあ。』

 

ある時、ぷつりと糸が切れたように駅のホームで、電車で、涙が止まらなくなった。1日や2日ではない。営業先から次の仕事先に移動する電車の中で涙が止まらないこともあった。そんな日が続き、もう無理だと思って会社を休んだ日、上司に相談をした。昨年の8月だった。

やめる覚悟で相談をしたその日の夜、言われたのは、部署異動で、ということだった。

 

営業マンからライターへ、そして今

部署異動を言い渡されて、会社のオウンドメディアのライター兼エディターとして働くようになってから8ヶ月が経つ。自分で選んだ以外の、生きる場所。

 

それからというもの、私の人生で、大切なものが2つになった。

 

音楽と、文章だ。

昔から本を読んだり詞を書くことは好きだったが、自分の文章に自信がない上に、文章を仕事にしてまで好きでいる自信はなかった。だが、いざ自分の仕事になってみると、向き合ってみると、変わるものだ。

 

今は、以前よりも大分息がしやすい。私には音楽だけじゃないんだと思うことで、余裕が生まれた。

大切なものって、何もひとつじゃなくていい。悪く言えばどっちつかず、器用貧乏。甘えだという人もいるだろう。でも、それでいい。

 

あの日、就職という決断をしたから。あの日、思い切って上司に相談をしたから。苦しみを伴う迷いの中で下してきた決断の連続のあとに自然と与えられた、文章という新たなかけがえのないもの。

 

社会人になってやっと気づけたことだが、私は、甘えずに生きていけるほど強い人間じゃない。ひとつのものだけに命をそそぐ精神力なんてものも持ち合わせていない。息苦しくなってしまう。でも、それでもいいんじゃないかと思う。

 

自分が生きやすいなら、それでいい。健やかに生きられるなら、それで。

 

音楽と文章があるおかげで少し強くなれた私でどこまでいけるか、まだ試してみたいことがたくさんある。まだまだ満足には程遠い。音楽の方は、今年に入ってやっと新しいバンドが組めた。文章のある生活なんて始まったばかりだ。

これからも、苦しんで、迷って、怖くなっても、生きていきたい。