焼餃子と水餃子だけのメニューで我々は満足できるのに選択肢があるというのは本当に幸せなのか
と、先日宇都宮で餃子の食べ歩きをして思いました。
選択肢が多いということは幸せなのだろうか。
たとえば中華料理屋さんなんかに行くと、選びきれないほどのメニューがある。最初はいろいろ見て、あ〜これおいしそう、いやでもこれもいいな、って楽しいんだけど、だんだん疲れてくる。胃の容量には限りがあるから、多いメニューの中からいくつかピックアップしなければならないし、選ぶのを放棄してとりあえず店員さんを呼ぶ作戦を敢行すると、大抵呼んでおいても迷う。そして結果、店員さんを待たせてしまっているのが申し訳なくなって、"店員さんに気を遣ってしまう"、がプラスされてさらに疲れる。
対して、メニューに焼餃子と水餃子しかない餃子屋さんはどうだろうか。
1秒も迷う必要がない。両方頼むやんそんなん。
しかも潔い。少ないメニューで勝負してる感、カッコいい。普通にカッコいい。メニューが少ない分、改良など含め料理人はそのメニューに注力できるわけだから、自然とクオリティーもあがるだろう。ちなみにこの餃子はめちゃくちゃ美味しかった。
優柔不断な人間にとっては、食べる前に疲れることがないし、選んだものがまずくて後悔するストレスもないから一石二鳥。二鳥じゃ済まないかもしれない。
そして冒頭に戻る。選択肢が多いということは、はたして幸せなのだろうか。人生において。
私は、高校にあがるときの選択肢はすごく少なかった。都会だと受験するにもいろいろ選択肢がありそうだけど、私の地元の高校の選択肢はせいぜい3〜4校。学力順。
学力が同じくらいの人が行く高校が2も3もあったら、選ぶのに苦労したろうし、たまにその選択で合ってたのかと問うてしまっただろう。
大学がそうだった。大学なんて無数の選択肢がある。就職もさらに無数の選択肢がある。
後悔こそしてないけど、あの時別の道を選んでたら、どんな出会いがあってどんな人生になっててどういう人間になってたろうな、とたまに思う。
飲食店なら、メニューの少ない方が後悔や疲労が少ない分ハッピーになれるのに、なんなんだ人生というものは。
毎日毎日選択肢を突きつけられ、これでいいのかなって選択を重ねる。いつでもいくつになっても選択肢だらけだ。
もっとシンプルに生きてみたいと思ったけど、2メニューしかない餃子屋は毎日通うといずれ飽きるように、選択肢が多いからこそ飽きずに人生を送れるのかもしれない。