紙一重な幸せと憂鬱
憂鬱で体が沈みそうになることがある。
程度の差こそあれ、いつだってほんのり憂鬱に浸かってて。
これがデフォルトなのかと最近は思い始めた。
なぜ、幸せなはずなのにこんなに憂鬱に苛まれるのか。巡り巡って考えていると行き着いた。
"憂鬱の正体は幸せだ"
という結論に。
大切なものが増えるって幸せなことのはず。だけどそれこそが私を憂鬱に導く。
そもそも、大切なものが複数ある人生は幸せなのか。
大切なもの、イコール失うと酷くつらいもの。そんな爆弾をいくつも抱えて幸せと言えるのか。
失う。
その危険性を伴いながら、大切にしよう大切にしようと、いくつもの愛おしいものを守り続ける毎日。
憂鬱が伴わないわけがない。怖くて怖くて苦しい。
この感覚が普通かどうかはわからないけれど。あるいはこれまでに、失うを知りすぎたのかもしれない。
大切なものだけ見て純粋に生きられていたあの頃は良かったよなあ、って心の内で呟く。
終わりを知らず、純粋に幸せに浸っていたあの頃。
恋愛に限らず、終わりがないなんて幻想なんだと、知ってしまってからはずっとこの調子だ。
訪れてもない未来ばかり案じてしまうから、目の前の今を見失う。今息をしているこの瞬間、これこそ一番大切なものなのに。
未来は不確かで、過去なんて記憶でしかない。
確かなのは息をしている現在しかないのに。
『憂鬱に浸る暇があれば、今この瞬間を大切にしなよ。』
来る日も来る日も言い聞かせるけど、気づいたら頭の中は不安に支配されている。そういう思考回路が癖づいている。
どうしようもない。
体と心が引き裂かれそうになる喪失を幾らか経験した後の今は、そんなどうしようもない思考回路を携えて、重くなる脳のワーキングメモリをなんとか機能させて生きていくしかないんだろう。
"幸せは憂鬱。幸せには犠牲が伴う。"
それが本来のあるべき姿なのかもしれない。
タダで幸せを幸せのままに受け取るなんて傲慢だ、って。憂鬱は幸せの証かあ、って。
そんなスタンスで生きていくしかない気がしている。
最近。