痛々しくて、醜くて、美しい恋だった
『羽の濡れた鳥のようだな』
それはなんとも安直な表現で、だけどそれ以外に的確な言葉が見つからなくて
自分に対して思うセリフでもないように思うけど、自分の半歩後ろからそう思った。
痛々しくて、醜くて、美しかった。
簡潔に表すと、そこに集約されてしまうような、そんな恋だったように思う。
醜いものは美しい。もちろん、渦中にいる人にとってみれば、ひとつもそんな感情は湧かないものだけど、狂気がまじるくらいの方が作品としては美しいのだ。
作品としては。
その視点がすぐに浮上するのは少し怖いが、こんな生き方がもう染み付いてしまった。
すぐに感情を書き殴って曲を生成してしまう私は、
「身も心もボロボロで生きていけばいいよ」
と、どうしようも逃げ場のない状況で、自嘲的に言っていた。
"昇華"という絶対的な武器がある私は強くてとても弱くて。
どんなに苦しいことがあっても、どれだけ傷ついても、それが曲になる。
またタチの悪いのが、苦しめば苦しむほどいい曲になるのだ。
だから、安易に苦しみから逃げることができない。
結果、できるのは曲だけじゃなくて、トラウマなんていう消えない記憶までも刻みつけられるんだけれど。
そうやって、苦しみもすべて曲に還元できてしまうから、どんなに心がボロボロになろうと、それが体にも影響を与えようとも、なくすのが惜しくなる。
メンタルだって、強化することもできますよなんて言われても、そんなのいらないと言ってしまう。
苦しみの真ん中にいても、これいい曲になるなあ、なんて思う。正直イかれてると思う。
私でこれなんだから、世のアーティストたちはどんなスタンスで生きてるんだろう。
苦しみさえ愛しみながら、曲を作るんだろうか。
私は忘れたくないなあと思う。どんな苦しみも。
絞れるだけ苦しみを絞り取って曲にして、絞りかすをまるで肥料をやるみたいに、演奏する時に曲にまければなぁ。
そこにトラウマみたいな古傷が残らないなら幸せなんだけど。
でも、そんな古傷も含めて今の私が作られているんだろうと思うと、受け入れて生きていくしかないなと思う。
きっと、苦しみながら恋愛をしてこなければ私は、今ほどは人の心を推し量れる人間になってなかっただろうから。