飛行機と死の恐怖
大げさ、だとはわかってるんだけど
私は飛行機に乗る時はいつも少しだけ、死を覚悟する。
アナウンスに従って、救命胴衣や酸素マスクの説明が書かれた紙に一通り目をやり、頭に入れる。
死がよぎるのは飛行機だけじゃなく、高速バスであってもそう。
飛行機が墜落する確率。
高速バスで事故に遭う確率。
いくら数字で安心させられても、確率は確率である以上、遭遇する時は遭遇するのだ。
宝くじに当たる人がいるように、不運だっていつ自分の身に降りかかるかなんて確率では判断できない。
長距離移動は、普段より死に遭遇する確率が高い気がして、発つ前にはいつも少し感傷的になってしまう。
ちなみにここでいう確率は私の中での感覚値だから別。そう思うものはそう思うのです。私の中では確率よりも感覚が絶対。
一般化された数字なんて、何の意味も持たない。
こんなことを、離陸したばかりの飛行機でiPhoneのメモ帳に綴っている。
日常では、問題が解決したと思えばまた違うところから新たな問題が浮上して
全部解決したかと思うと今度は何もないはずの私の内側からまた問題が浮上する。
はっきり言ってどうしようもなく生きづらい。
こんな生きづらい日々もうどうでもよくない?と感情がない側の私は言うけど
それでも感傷的になるということは死にたくないんだろう。
無事に着陸したら、少し抱えていた死の恐怖なんてものはすっかり忘れて日常に還る。
帰省するたび、それの繰り返し。
そんなすぐ忘れてしまうような些細な死の恐怖・死の実感は漠然としすぎてて、何の役にも立たない。
もっと明確に死をイメージできれば、毎日の行動も変わってくるんだろうなと思うし、そんなことを書いている本も幾つかあった。
でもどうにも、明確にイメージしようとすればするほどできない。
ただ心労になるだけの不安を携えて、飛行機の座席で椎名林檎を聴いている今。
降りられたら缶チューハイが飲みたい。