風に溶けて消える

そんな穏やかな気持ちで生きたいほんとは。限界OLバンドマン

平日夜の過ごし方のバリエーションを真面目に1ヶ月分考えてみた

 

私の平日は、10:00出社で19:00退社。どうしても、毎日というのは同じように繰り返すし、平日夜の使い方だって同じような繰り返しになってしまいがちだ。

 

そんなときふと、平日夜の過ごし方のバリエーションを豊富に持っていたらもっと人生豊かになるんじゃないかなと思った。100個あれば3ヶ月とちょっとは困らないので、100個あげようとしましたがさすがに現実的ではないので30個にしました。

 

家でひとりでできること

1.晩酌

いい酒だとさらにいい。いや、逆に安酒もいいかも。サントリーの神泡サーバーは持ってるとQOLが上がるのでおすすめ。

 

2.ひたすらじっくり音楽を聴く

少し質のいいスピーカーがあればなおいいし、部屋を真っ暗にしてひたすら沈むのすごくおすすめ。

 

3.家事を片っ端から丹念にする

部屋、お風呂の排水溝、台所のシンク、とにかくあらゆるところを綺麗にする。やったことないけど絶対気分スッキリする。

 

4.入浴を楽しむ

入浴剤を入れて空想にふける。上がった後はビールかコーヒー牛乳。

 

5.TVを垂れ流す

笑うのは健康にいいらしいので笑えるテレビとかあればいいね。

 

6.映画を借りてきてひとり映画館をする

キャラメルのポップコーンと、ハイボールかコーラを用意するところから。

 

7.本を読む

 

8.新しい趣味を試す

趣味 でググる

 

9.めちゃくちゃ凝った料理をする

角煮とか。角煮って何時間もかかる?作ったことないからわからんけど、コストなんて考えずにとにかく贅沢な自炊。しかしこれはだれかと食べる方が多分幸せ。

 

10.ひたすら無になる

頭を空っぽにする時間って意外と、いや全然ないので。

 

11.何も決めない

帰ったらこれするぞ、を決めずに本能のままに過ごす。

 

12.10時間寝る

睡眠は体と心の栄養。本当に。

 

外でひとりでできること

14.夜の喫茶店に行く

穏やかな時間が流れていて、日常を忘れられる。多分思っているよりめちゃくちゃ心が安らぐのでおすすめ。

 

15.映画を観に行く

ひとりでもキャラメルポップコーンはマスト。

 

16.ひとりで飲みに行く

最寄りに行きつけがあれば最高。

 

17.服を買いに行く

 

18.銭湯に行く

風呂上がりはビールかコーヒー牛乳。ここまでセットで。

 

19.行き着く駅まで行く

逗子とか。

 

20.エステや整体に行く

 

21.カラオケに行く

 

22.読書会や勉強会に参加する

やったことあるけど意識高い気持ちに浸れて悪くない。

 

23.美術展に行く

 

24.降りたことのない駅に行ってふらつく

結局は飲みに行くことになりそうですが。

 

25.最寄駅を越える

地味に一駅越えるの、謎の背徳感あって楽しい。

 

26.県境を越える

私は埼玉に住んでいるので神奈川あたりまで行きたい。

 

27.中央線で大月駅(山梨)まで行ってみる

こないだテレビで知ったんだけど、神田からの中央線でなんと山梨までいける電車があるらしい。すごい田舎らしい。最悪平日でも現実逃避ができそう。

 

28.新幹線で名古屋まで行って帰ってくる

調べたらいけないことはないらしい。

 

29.猫カフェに行く

平日夜の猫カフェにひとりで行くのこれもなんか罪深くてよくないですか?

 

30.ライブに行く

もうなんも出てこなくてめっちゃ普通の30個目。すみませんでした。

 

おわり

30あれば1ヶ月持ちますね。30個も平日のバリエーションあるんだぜ〜って思うだけで余裕って出てくる。ストレス発散リスト作るのも余裕出るからおすすめってなんかの本に書いてました。

では。

【読んだ】『もうちょっと「楽」に生きてみないか』にはライフハックが詰まっています

「苦しい努力は大事だ」そういわれても、何の違和感もない人がほとんどではないかと思う。私もつい先日まではそうだった。

しかし身をもって知ってしまった。こんなんじゃまだまだだと自分を追い込んで、苦しみながらする努力はメンタルに支障を来す。そして免疫力や生命力を下げる。最終的には体にも支障を来たす。

 

だからもう楽になりたくなったのだ。生命力の塊、免疫力の鬼になりたくなった。

カラッと毎日を生きたいと、そう思ってすがるように書店の「心理学」のコーナーに足を運んだ。そこで見つけたのが、和田秀樹著『もうちょっと「楽」に生きてみないか』。

 

本書における「楽に生きる」とは、手を抜くとか妥協するとかそういった話ではない。夢やしたいことを叶えるためにも、楽に生きるにはどうすればいいかを考えることが大切だという。

 

性格を変えるのはなかなか難しくても、考え方を少しくらい変えることはできないでもないだろう。考え方が変われば、きっと時間がかかっても性格は少しずつ変わってくる。

この本は、そんなものを示唆してくれたので、いくつかピックアップしてみた。

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「楽する」ということは考えること、我慢の方がよっぽど怠惰

頑張るだけ、つらくても耐えるだけなら頭を使うことはありません。楽な方法を考えるというのは、頭を使って目標達成を目指すということで、本来ならそれがいちばん人間らしいやり方のはずなのです。

と、著者は一貫して ‟ つらいのを我慢して努力を続けるのは脳筋だ。”と主張する。 

 

まるで不意を突かれたような気持ちになった。私はいろいろ考えながらこれまで生きてきたから、自分のことを脳筋だと思ったことがなかったが、強烈に心当たりがあった。私は頭が固いのだ。

 

それがひそかにずっとコンプレックスなのだが、脳の性質なんだと思っていた。

しかし、我慢して耐えてストイックに努力するのをよしとする私の考え方が頭の固さを作り上げていたのかもしれない。脳が筋肉でカチカチなのかもしれない。じわる。

 

さらに著者は、「苦」は「苦」を呼ぶと主張する。

確かにそうなのかもしれない。人間は過去の功績に固執してしまう生き物だ。苦しんで努力したものが上手くいけば、そのやり方でその後もやり続けるからまた苦しみを重ねてしまう。結果、どこかでつぶれる可能性もある。

 

反対に、「楽」な方法を探して目標達成をした過去があれば、「あの時できたから今回も」とまた頭を使って「楽」を探すようになるという。習性みたいなものだろう。

 

著者は、「苦しい努力には何の価値もありません」とまで言う。苦しい努力が未来の自分を支えてくれることだってあるから、さすがにそこまでは思わないが、とりあえず私の頭は脳筋だったようなのでもう少し「楽」に努力する方法を頭で考えるようにしようと思う。

 

つらい努力は正しいとは言いがたいかもしれない

たとえば、新年に立てた目標に対する努力が1か月も続かなかったとき、筋トレをすると言ったのに3日も続かなかったとき、人は何を思うだろう。

 

真面目な人は、意思が弱いと自分に少なからず失望したり、どうせ自分は継続ができないんだと自分自身を諦めたりする。

 

しかし、それは継続の仕方が悪いのであって、楽しければなんだって続く。設定している量が悪いのだ、と著者は言う。

 

私がちょこちょこ更新するこのブログも、書きたいからこのように文字を重ね、これで92記事目。書きたいことを書きたいように書いているので、苦しくはない。楽しい努力である。

 

つらいと感じたら量を減らす、それが楽に続けるコツだと言う。著者の言うことを真に受けるとするならば、私はダイエットをして理想の体型になりたいと常々思っているのに筋トレだけはどうしても続かないのは、それが苦しい努力になってしまっているからだ。明日からスクワット1日3回から始めようと思う。

 

また、期限を付けないことも重要だという。3年後までには…5年後までには…、と、私もよく考えてしまうけど、疲れるだけというのがわかったし、何よりも今をうまく生きることができなくなる。体調を崩して1か月思うように目標に対するアクションができなかっただけで焦ってしんどくなる。死ぬまでに、くらいで考えておいた方が今目の前にある今を楽しめるというものだろう。

 

挽回という考え方の危険性

前述の話の続きになるが、「挽回」という概念も危険だという。これも真面目過ぎる人、完璧主義な人には特に当てはまるのではないだろうか。

 

遅れることも前進には違いありません。ここがつい錯覚するところで、計画や予定に対して遅れているというだけのことで、ゴールから遠ざかっているわけではないのです。

 

ここが私にとって2個目の目から鱗箇所だった。つい先日のことだが、風邪やら扁桃炎やらで体調を崩し、思っていたように目標に対する努力ができなかった。後退している気持ちになったが、現実には諦めていないのだから確かに後退ではない。この概念、忘れないでいるだけでライフハックになりそうな気がする。

 

いつだって頑張っているのだから

「欲を言えばきりがないけど、私なりに頑張ったんだからほめてあげなくちゃ」こういう考え方ができると、とても楽になります。

 

「~しなきゃ」「~すべき」思考の強い人はこれを胸に刻むのはいかがかなと思う。生きていれば失敗もするし、私も自分に優しくするのは得意じゃないのだが、「ほめてあげなくちゃ」って義務づけて強制的に自分をいたわるのはアリかなと思う。自分をほめてあげなくちゃ、っておもしろいね。

 

 おわり

人の頭は変化を嫌う。だから、まったく自分にない考え方を取り入れるのはストレスがかかる。

「よし、楽に生きよう!」と思うことでさえ、このブログを書いている今の私にとってはもうすでにストレスである。

「楽に生きる」ということを頑張ろうとしているのだからそりゃそうである。だけどもう本当に疲れたので何度かこの本を読み返して頭にこの考え方をしみこませてあげようと思う。

どうせ生きて死ぬんなら、楽しいの総量が多い方がいい。

カラッと生きられる日が来るといいな。

 

本当におすすめです。

 

 

四六時中

 

四六時中、曲作りのことを考えている。

移動は音楽を聴きながら曲を研究するのが楽しくて、移動中に本が読めなくなった。

 

家に帰って夕食をさっと取れば、ギターを手に狭い部屋のベッドの上に座り、目の前にキーボードを置く。

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作曲は、とてもエネルギーを使う作業だ。

 

コード、構成、いろいろ考え弾きながら、ボイスメモで録音しながらいいメロディーを探るために永遠と歌う。

歌い疲れたなと思ってボイスメモを見ると、たくさん撮った録音とともに知らない間に2時間経っていることに気づく。

 

音だけでなく、歌詞の作成もいろんなものを奪っていく。

暗い曲を書く時は特にそうで、過去や潜在的な苦しみの中に沈み込んで言葉を探しにいくから、気力や精神力がどんどん吸い取られる。酷い時はメンタルがやられて寝てもリセットされないことだって多々ある。

 

曲作りに疲れるとまた音楽を聴く。綺麗なサビに触れるたびに感嘆のため息が出る。

素敵なサビを私もたくさん作りたいなあってワクワクする。

 

音楽が楽しい時期が一番自分を生きてるって実感するし充実して満たされていて幸せだ。

作曲ができなかった3年前と今日の曲の作り方と生き方

 

ギターボーカルになって、本格的に作曲を始めてから3年が経つ。これまでに作った曲は、ようやく30曲に達した。

 

「曲はできるけど歌詞ができない。」「歌詞はできるけど曲ができない。」

今まで、曲を作る人からよく聞いてきた言葉だ。

 

私は圧倒的に後者で、作曲がとてつもなく苦手だった。だから昔は、作曲なんてしたくなかったし、誰かが作るオケに歌詞だけつける役割がしたかった。

メロなんてまったく浮かばない、コードを鳴らしながらでもダサいメロディーしか出てこない。作曲なんて私には無理だと、ずっと目をそらしていた。

 

それでも、就活が始まる一年前の最後の春に、やっぱり私は自分の歌が歌いたい、諦めない、と心に決めた。もう、ここで逃げたら一生できない気がして。そして、それをものすごく後悔しそうな気がして。

どんな新年の目標を立てても1ヶ月後には忘れている私だが、その時の決断は今まで心に残り続け、今日まで曲作りをもがきながらも続けてきた。

 

30曲の中には様々な曲がある。いまだに気に入っている曲、レベルが低すぎてもう絶対に人前で演奏できない曲。

いろんな曲を重ねてきて、やっと、自分の気に入る曲を書けるようになってきた。

 

私は、ギターを弾きながら歌って、それをiPhoneのボイスメモで録音しながら曲を作る。ドラム、ベース、その他打ち込みは行わない。その方が、バンドでやる意味がある気がするから。何の先入観なしにギターと歌だけをきいてもらって、各々が聴いてきた音楽、やってきた音楽が反映されるであろう各自の頭で鳴るものを鳴らしてもらって、アレンジをバンドで仕上げるのがとても好きだ。

今やっているバンドは、メンバーの趣味が異なるからこそのアレンジが加わるからとても楽しいし、大好きだ。

 

と、こう言えばそれっぽく聞こえるが、言い訳でもある。私は、他の楽器がバックで鳴っているイメージを持ちながら曲を作ることができない。できなかった。

 

だから、バンドに持ち込んで各自がアレンジしてくれてバンドの曲になったものを聴くと、いつもその広がりに感動していた。

 

そんな曲作りしかできなかったがやっと最近、バックで鳴る音もイメージしながら曲を作れるようになった。

 

やっとだ。長かった。

 

苦手で、なんなら嫌いだった作曲、最近は楽しい。

きっとまだまだいい曲ができてくるようになる、そんな確信を持たせてくれているのは、今までの私の3年間とその成果だ。

 

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この事象を振り返ると、すべてに応用できそうな気がして少し勇気が出てくる。

 

対外的なコミュニケーション、取材、などなど、今の私の仕事。

うまくできなくて、焦ったり無闇に自分を責めたりしそうになるけど、そんな必要はないよって、24歳になってやっとそう言ってあげられる。

 

準備だけじゃできない部分は、経験とかそういった部分。きっと、今苦手なことだってしっかり準備して省みてを繰り返せば、質は上がってくる。焦っても責めても意味がない。

 

そう思えるようになって随分楽になった。こうやって、今までの人生を糧に大人は余裕を獲得していくのだろうか。

 

日常へ帰る

 

実家の床に寝てると、のそのそっと立つかわいい足音も、外に脱走しない様にと、慎重に開ける玄関のドアもなくなった。

あるものがない、足りない、その寂しさを感じながら過ごした昨日、今日。

 

3連休、2日目の日曜日。

あの寂しい空間に父と母を置いて帰るのは心苦しかったが、私は私の日常へ帰る列車に乗った。

 

東京には、待っていてくれる日常がある。戻りたいと思える場所がある。人がいる。これを幸せって言わないでなんと言うのだろう。

 

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実家や、母の作る麦味噌の味噌汁付きのご飯、慣れ親しんだ田んぼの広がる田舎の風景は、私の心と体に余裕をくれる。

実家へ帰省し、日常から解き放たれたすぐは心がスッとするけど、1日2日過ごせば、元の日常に、それがまだ手に入れてないものばかりでもがく日常でも、帰りたいと思える。

 

今じゃ愛媛の実家は私の日常ではないから。非、日常だ。

私は私でまた明日から、日常を、生活を、立て直さなきゃならない。

 

そんな私の帰る日常、私の周りは、とても優しい世界だ。大切にしたいもの、人しか大切にしていないから、大切にしたいもの、したい人、そんなものだけで私の世界は構成されている。最高だね。

 

金曜の昼、散々迷った帰省だったけど、帰ってよかった。

 

心に余裕がないと見失いがちだけど、大切な日常だったんだなって思ったから。抱きしめて生きていきたい。傷心した心だからか、余計そんなことを思った。

大切なものと人だけ、大事にしてさ。それでいいんだよきっと。

2019/07/12

 

私は記憶力がすこぶる悪い。長期記憶が本当に弱く、1年前の話であれば私より友達の方が私についてよく覚えていたりする。1年もつ記憶量は、人より少ない自信がある。

鮮烈な記憶であれば、きっと残るだろう。だけれど、ひとつ残らず覚えておくことは、きっと不可能だ。

 

だから私はここで今日、日記を綴っている。

あの時あの愛媛のペットショップで私が預かったひとつの命についての最後の記憶は、何ひとつ取りこぼしたくないから。

 

もともとは、小学2年だった私がペットショップの里親募集の一角で、喚いてうちに連れて帰った子だった。小さくて、やんちゃで可愛い、茶トラ猫の男の子。きなこ色だからきなこと名付けた、これは確か、母の案。

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地元を離れてからする帰省だって、この子に会えるのが一番の楽しみだったりした。

 

もう16年生きて、最近ひどく弱ってしまっていた。あとどれくらい持つかわからないと母から聞いていて、今日の夜私は新幹線で愛媛に帰り、まだ息をしているきなこに会う予定だった。

 

そんな今日の14:00前、母から訃報を受け取った。

 

14:20に到着した東京駅。止まらず目から溢れてマスクが吸収する涙には構わず、そのままに歩き回る。私の悲しみは私だけのものだ。

そもそも人で溢れる東京では、行き交う人の顔なんて誰も見ていない。みんな目的地へと足早にすれ違うだけだ。

 

もう息をしていない愛する猫がいる愛媛へ帰るか、帰らないかを体調と相談しながら延々と歩きながら考えた。30分経っていた。

 

新幹線が立つ10分前にやっと、帰ろうと決断。

いなくなってしまったけど、まだ、受け取らなきゃいけないものがある気がしたのだ。

 

お昼もまだだったので急いで購入し、新幹線乗り場へ。乗り慣れていないから迷い、出発残り2分で駅員さんに尋ねる。

 

「あの、岡山までの新幹線ってどこですか、、」

「すぐ行って左です」

「でもあと2分しか…」

「すぐ行って左です!」

 

間に合うってことなんだろうなと思い、走る。新幹線、難しい。

 

手近のドアから車両に乗って、30秒ほどで閉まったドア。指定席の先まで車内を歩いて移動する。

 

座って一息。

15:30、扁桃炎の薬を飲むためにご飯を食べる。

浜松町からここまでずっと、mol-74の大好きな曲、エイプリルが入ったアルバム「kanki」を垂れ流していたことに気づく。何周したかわからない。

 

田んぼ、木々、家。ギリギリだったから通路側しか取れなかった座席から、新幹線の窓に流れる街並みがすっかり田舎なのを見て、ふっと心が和らぐ。

 

届いたラインの、最後見届けてあげて、じゃなくて、会いに行ってあげな、という表現が素敵で、新幹線でまた涙する。

 

連日雨続きだった都内から発車した新幹線は静岡に差し掛かり、久しぶりに陽の光を目にする。イヤホンから流れるNABOWAの「つかのま」がぴったりだ。

隣に座ったおじさんは、しきりに窓の外を眺めている。私は泣き疲れたので、「晴れ、久しぶりですね。気持ちいいですね」そう声をかけたい気分になった。

 

17:50、新神戸。懐かしの関西、と思いつつ、次の駅で乗り換えの岡山。愛媛まではあと3時間。

冷たくなった体に触れるのがだんだん怖くなってきて、目頭が熱くなる。

 

18:30、岡山で在来線の特急へ乗り換え。

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夕日に照らされた瀬戸内の海は、オレンジとブルーのコントラストでとても綺麗で、目が離せなくなった。

 

耳に音楽だけあてて、海と空を眺める。

odolの「odol」というこれまた大好きなアルバムが、また何周もする。田舎の広大な海と空を眺めながら聴くといつもと聴こえ方が変わってすごく素敵だ。

 

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久しぶりに目にする夕晴れ、これは香川。

 

19:50、すっかり日が落ちて、電車の窓ガラスには自分の姿と車内が映るようになる。

 

そういえば、小2の8歳から、18で実家を離れるまでずっと一緒にいてくれたなあ、なんて思い出す。

 

いじめられて、でも親に心配かけたくなくて言えなかった日も、失恋して頭が痛くなるまで泣いた日も、私が部屋で泣いてると、なんとなく心配そうな表情でそばに来て、スリスリと頭をすり寄せてきて慰めてくれた。

そのたびに、猫でも人間の悲しみがわかるのかなと驚いたものだ。

 

ギターを初めて家で弾いた日も、それに慣れてくれた日も。小2から高3なんていう、一番多感な時期に一緒にいたんだなあと気づく20:00。

 

21:00前。

愛媛に着いて、親に会った。

 

どうしても出かけなくてはいけない用事で、家を空けた1時間の間に息を引き取ったのだと言う。まるでタイミングを見計らったかのように。

 

きなこは、甘えたい時には甘えるけど気分が乗らないときは全く相手にしないような、本当に猫らしい猫だった。

「猫は死に目を人に見せない」って本当なんだなと思って、堰を切った涙。

 

人がいなくなって気が抜けたのか、わからないけど、誰もいないところで命が尽きるその孤独を想像するとまた苦しくなった。

意思なのか、本能なのか。最後まで猫らしいまま、いなくなったのだ。

 

眠るようにいなくなったんだと思う、と母。16歳、おそらく老衰だ。

 

21:30。

家に着いて、3ヶ月ぶりにきなこに会った。

3ヶ月前からは想像がつかないくらい痩せている愛する猫。毛並みはフサフサ、綺麗な茶トラのまま。散々泣き疲れたはずなのに、やっぱり泣いてしまう。少し硬くなった冷たい体に、間に合わなくてごめんね、ありがとう、おやすみ、と告げた。

 

お別れの時。

私と一緒にまた涙を流す母と、表情を変えずいつも通りあまり口を開かない父。

父はいつもそうだ、私が幼い頃から今日もこうして、いつも強い。悲しみを感じていながら、見せることがほとんどない。どうしてなんだろう、わからないが、こういうときの父の強さは本当に心強い。

 

酷く悲しいのは、それだけ幸せを、喜びをもらったということなんだろう。最後まで、ありがとうを伝えた。感謝してもしきれないなあと思いながら。

 

23:00。ひと通り泣いて目が乾燥して眠たい。

悲しいけど、扁桃炎も治さなきゃいけないし生きていかなきゃいけない。

 

私だったら、死んだあとずっと悲しんで欲しいとは思わない。ひと通り悲しんでくれたら、心に存在だけ生かしておいてくれれば本望だなあなんて思うので、私もそうすることにしたい。

 

奪っていくのはいつだって夜の闇だと思っていた私はこの3日間、一緒に夜を越えよう、と願いながら眠りについた。夜は一緒に越えられたから、願いが通じたんだと思いたい。

 

きなこは、私に生命力を灯してくれたような気がする。扁桃炎というタイミングもあるだろう。強く生きていかなきゃいけない、という思いをすごく感じている。

ただの感覚だけど、こういう感覚がきっと一番正しい。感覚はいつだって信用している。

 

 

23:30。以上が本日の日記。

忘れたくない今日という日と、受け取った生命力。ちゃんと文字にしたから明日から、いや、これから何年経っても忘れずにしゃんと生きていけるだろう。かけがえのないものをくれたきなこの存在を、心で感じながら。

 

今日はゆっくり休みます。なきもゆっくりおやすみ。おやすみ。

決められない

 

決めるのが苦手だ。

私はいつだって正解の選択がしたい。実家の猫の訃報を受けてすぐに開いたこの画面だって、正解を導いてくれそうだったから。

けど正解なんてないって分かってるし、それを受け入れた方が生きやすくて楽なのも分かってる。

 

でも私はいつだって正解が欲しい。気をつけていないと忘れてしまう。正解なんてないってことを。

 

間に合うと、思ったのに。命は待ってくれない。

実家の愛する猫が呼吸を失ったって、私はお腹が空くし、この厄介な扁桃炎と戦わなくてはいけない。

 

間に合わなかった。

金曜の14:30、東京駅。

 

ゆっくり頭を冷やしてこの後どうするかを熟考できる落ち着いた喫茶店なんてもの、この駅にはない。

持て余した半休はどこにいくんだろう。

 

可能性として覚悟はしていたけど、朝が来たから大丈夫だと思っていた。

後悔はない、できることはしてたから。

 

呼吸を失った彼の姿を、見ておかないと後悔する?ねえどう思う?

自分の体調と照らし合わせてどう?ねえどう思う?

 

考えたって考えたって自分の意思がわからない。意思を持った動物の中でも意思を持って生きてる方な自覚はあるのに、それでも自分がどうしたいかがわからない。これも大事、これも大事って抱えすぎて、結局何が自分にとって大切なのかが、いつもわからない。

 

正解が欲しい。クイズ番組みたいに、ひととおり考えてわからなかったらくれる正解が欲しい。正解をちょうだいよ。